見返りを求めない笑顔


人の為に何かをした時に、心のどこかで何かしら自分に返って来ると思って、人の為に行動する人は多いとはおもう。

こう思うのは私の心が汚れてるだけかも知れないが。

しかし 、自分がそう思ってても人からは思ったような見返りが返って来ないことが多いはずだ。もちろん例外的に思いもよらぬ見返りもあるとは思う。

結局は自己愛なのだ。自分はこんなに思っている、自分は人の為にこんなにしている、だから自分もこんな風に思って、自分にも何かしてと。

そう思いだすと、そこには当初の相手の為という優しさも少なくなってくる。意地悪く突き詰めると、そもそもが相手からの見返りも期待しての優しさだから、相手から思ったような見返りや、感謝の言動が無かった場合は勝手に落胆したり、落胆するだけじゃなく、相手への恨みに変わる場合もあるかも知れない。

 

「お金を貸す時はあげるつもりで貸した方がいい」

 

よく聞く言葉だが、そんなわけない。返してほしいに決まってる。なんなら、貸した分以上の何かを期待する気持ちがあってもおかしくない。だって、お金という、資本主義社会では命の次に大事になりうるモノを、頼まれたから渋々貸すのだ。その裏に見返りを求める心があって当然じゃないか。

でも、期待して返って来ないとショックがあるから「貸した」ではなく「あげた」と自分に言い聞かせてるのだ。

まるで、見返りを求めるのが悪いみたいだ。

そんなに悪い思いなのか?

人間らしくていいじゃないか!

動物に見返りを求める行為などあるかな?動物にあるとしたら、親が子供に餌を与える行為が、人がお金を貸す時のように、大事なモノを与える行為に似てるかも知れない。でも、動物の親が子供に将来の見返りを求めて餌を与えるか?

そう考えると、人に見返りを求めて優しくする行為は、やはり人間特有で人間らしい行為だなとは思う。

人に優しくして見返りを期待する行為が自己愛だっていいじゃない!人の為になるならば。人から奪うのではない。人に何かを与えるのだから。

 

「でも、結局、心では見返りを求めてるけどね…」

 

こうやって心の声を改めて書くと、カッコ悪いな。やはり人に優しくするときは先に、
「見返り期待宣言」した方がいい。

 

「君が困ってるから、僕の大事なお金を貸すけど、表向きは返って来なくていいと宣言して貸すよ。でも、貸した分以上のお金か、それとも何か品物でもいいから貸したお金以上の何かが返ってくる事は期待しておく。ついでに爽やかに男らしく貸した人間だという評判が周りに広まってほしいな。そんな付加価値があることを期待して、君に表面上は気持ち良くお金を貸すよ」

 

正直過ぎても、激しくダサいな…

 

心で見返りを求めても期待外れになる怖さもあるし、正直に言って人に優しくするのもダサ過ぎるし、見返りを求めない優しさなど本当にあるのか?とも思う。

それに近いのが、やはり親の愛なのかも知れない。

特に母親は子供を1年近くも体内に宿してるわけだから、子供に対する優しさは自分自身に対する優しさと同等なのかも知れない。

いや、赤ちゃんの姿形、笑顔を見ると、もう見返りは赤ちゃんから貰ってるのかも?いや、見返りではないな。

赤ちゃんの、あの姿形や笑顔そのものが、相手に見返りを求めない優しさ、宝物そのものなのではないか。

 

赤ちゃんが「どうだ!この黒目が多いキュートな眼差し。ちょっとサービスで笑ってやるか、キャハハも添えて。おっと、バブ〜も言わなきゃ。これで大人もメロメロさ。天然母乳か高級粉ミルクゲットだな!最近、腸内環境が悪いからオリゴ糖を採取して、ビフィズス菌も増やすか…」

 

などと、赤ちゃんが見返りを求めて笑うわけがない。

 

ならば、赤ちゃん最強で最高だ。

赤ちゃんの見返りを求めない可愛い笑顔と存在によって、この世界は繁栄し、この先の世界を救うのだ。

 

だから、今、守るのは子供たちの存在と未来だ。

 

一番近くに守るべき宝物があるのに、世界で争ってる大人たちは何してんだ。

 

一番大事な宝物に世界中のみんながもっとたくさん、もっともっと早く気付いて、できるだけ長く長く、

 

 

平穏が訪れ、平和が続きますように。