あの子が落ちていく


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僕は不良ではなかった。


当たり前だ、こんな気弱な不良なんているものか。


しかし、不良に憧れたことはあった。


いや、不良じゃなく強さへの憧れかな


そんな僕は人生でタバコを一回だけ吸ったことがある。

しかし、それは大人になってからだ。それも無理やり吸わされた。モラハラ彼女から、唇に火の付いたタバコを押し付けられそうになり、それを逃げようとしたら「じゃあタバコを吸ってみて!」と強要され、その時に人生で初めてタバコを吸った。


タバコで思い出すのは、僕が小学校の時に一緒にサッカーをしていた〇〇君だ。彼は中学校1年生で、もうタバコを吸っていた。

〇〇君はお父さんと弟の3人家族だった。

家がボロいと周りから馬鹿にされてて、お母さんは突然いなくなったような事を聞いていた。

だから、〇〇君の遠足のお弁当はお父さんが作ってた。白ご飯に黒いノリだけがいっぱいに貼り付けてあるだけの、お弁当だった。

〇〇君はお弁当を見られるのが恥ずかしいのか、弁当箱の蓋で中身を隠すようにお弁当を食べてた。周りの男の子たちはそんな〇〇君の気持ちを無視するかのように、〇〇君のお弁当の中身を覗いて馬鹿にしてたような記憶がある。

僕は〇〇君の恥ずかしい気持ちが分かったから、〇〇君のお弁当を馬鹿にすることはなかった。

今の僕の知識なら理解出来るが、〇〇君は癇癪持ちだったみたいだ。突然怒り出し、先生も手が付けられない時があった。

ある時、〇〇君は家がボロいのを馬鹿にされ、教室のドアを閉めて教室に閉じこもった時があった。

僕は一緒にサッカーをしたり、放課後は〇〇君と一緒に家まで帰ったりしてたから比較的仲が良かった。そんな僕に先生が〇〇君を教室から連れ出すように頼んで来た。

僕は内心は困ったなぁと思ったのを覚えている。先生が説得してもダメなのに、僕なんかじゃダメだろ。そんな素直な気持ちだったように感じる。

でも、僕が説得しに行ったら、〇〇君は素直に教室から出たのだ。

僕は小学校の他の思い出はほとんど覚えてないけど、〇〇君との、この場面はなんとなく覚えてる。


毎日のように〇〇君とサッカーをしてた日々。そんな僕たちは中学生になった。


僕は最初は卓球部に入り、女子にまったく相手にされない悔しさから、女子にモテるためにサッカー部に入り直し、その結果、願望通りにモテモテとなった。


一方の〇〇君はサッカー部には入らずに、なんと見事な不良となってしまった。


女子にモテモテとなり天狗の鼻が伸び切って、調子に乗ってた僕は同級生の不良に目を付けられ、1年生の夏休みが終わった新学期の初日に、クラスのみんなの前で同級生の不良にボコボコに殴られてしまった。

本当に見事な転落劇だ。病院には行ってないから、確実ではないが、俺は同級生からの暴行により天狗のように伸び切った鼻の骨を折られたと思う。同級生の不良の切れ味鋭い見事な膝蹴りにより、僕の鼻からは見事な真っ赤なシャワーが吹き出した。

その時の暴行されたことは先生にも親にも言わずに、自分だけの心にしまい込んだけど、今の知識がある僕ならば、すぐに病院に行って診断書を取っただろう。加害者が14歳未満なので、「刑事未成年」となり、残念ながら暴行罪は成立しない。ならば、保護者に慰謝料請求だ!相手の家まで突撃し、そこで僕と僕の両親ともども涙と怒りの謝罪要求を相手の保護者に高らかに訴え、そして見事に相手からの誠心誠意の謝罪と慰謝料ゲット!


と、今の知識の僕なら、そこまで考えが及んだけど、中学生の僕にはそんな考えは浮かばなかった。ただただ、調子に乗ってた自分への自己嫌悪だけがずっと心に残った。


不良にもなれず、人気者にもなれず、その後の僕はすっかり自信を無くしてしまった。まるで翼を折られたすずめだ。小さな小さな、すずめのクセに調子に乗って自分をタカだと思ってた馬鹿な行いの報いだ。今の弱ったすずめの僕では「すずめの戸締まり」さえ出来やしない。


その後はサッカー部にも僕を殴った不良の不良仲間がいたから、僕はまた殴られるかもとビビってサッカー部も辞めてしまい、見事な帰宅部となってしまった。


なんて惨めなんだ。あんなにサッカーを好きだったけど、自分の臆病さと未熟な心のせいで、大好きなサッカーさえ諦めてしまった。


そんな僕が家への帰りのバスを座って待っていた時に、サッカー部の不良が僕に因縁を付けて来た時があった。

その時の僕はサッカー部で調子に乗ってた時の僕とはもう別人だ。人とまともに目も合わせられなくなってて、本当に雨に濡れたチワワみたいな弱々しい怯えた目をしてたはずだ。

そんな僕をさらに不良が追い詰める。僕はまた殴られる!そうだ、もう全てを受け入れて楽になろう。僕はもう相手のパンチを受け入れる準備をしていた。


その時だ!


「おい!止めとけ!!」


激しく重低音のドスの効いた声。


あの〇〇君の声だった。


〇〇君は、この中学生で一番の悪い不良となり、とんでもない極悪人となっていたのだ。


その〇〇君が僕を救った!!


僕はこの時、〇〇君は僕が小学校の時に〇〇君が教室に立てこもった時に説得しに来てくれた事を感謝してくれてたのかなと思った。よくあるでしょ?海外の動物のエピソードで猛獣を育てた人を猛獣は大きくなっても忘れてないという温かなエピソードが。

まぁ、逆のエピソードもあって、人間側は懐かしくて猛獣に近づいて、猛獣はそんなことすっかり忘れてて、ただの餌が近づいて来たと思って人間が襲われるケースもあるけどね…


しかし、〇〇君は間違いなく僕を救ってくれた。


そんな〇〇君の傍らには中学校1年生のクセに彼女までいた。なんてこった!僕なんて、まだ女子の秘密の花園の姿形さえ見たことないのに、〇〇君は彼女と早くもイチャコラしてるっていうのか!

この時の僕は女子の秘密の花園を夢で見たとしても、夢の中では女子の秘密の花園にはいつも霧がかかってるっていうのに、〇〇君は女子の秘密の花園を、もう現地調査をしていたのだ!


俺はこれにもっとも衝撃を受けた!


家をボロいと馬鹿にされてた〇〇君、その馬鹿にしてた小学校時代の上級生を、中学生になってから、殺すほどにボコボコに殴ってる姿を俺は見た。


お父さんが不器用ながら一生懸命に作ってくれた、お弁当を見られるのを恥ずかしがってた〇〇君、その〇〇君は中学校の教室の窓ガラスを金属バットで割って歩く不良になった。


教室に立てこもって泣いていた〇〇君、ついに男の先生の胸ぐらを掴んで顔面を何回も殴る本物の極道予備軍になった。


そして、その時に学校側が警察に通報。警察官が中学校に来て、とうとう〇〇君は警察署に連れて行かれた。


その姿が、僕が〇〇君を見た最後の姿となった。

 

そして、3年半前に実家に帰った僕は、〇〇君はどうなったかを母親に聞いてみたんだ。


「〇〇君は家を出てから行方不明みたいよ。お父さんは1人で家で亡くなってた。家が古かったし、近所付き合いもなかったから、遺体が見つかるまでに時間がかかって可哀想な状態だったよ。〇〇君は葬式にも来なかったみたい」


〇〇君は今も行方不明だ。

 

でも、僕も同じようなものだ。何年も音信不通で、無一文になって、命からがら実家に戻った。タイトルの、


「あの子が落ちていく」


〇〇君を思って、付けたタイトルだったが、落ちてるのは僕だ。


不良にもなれず、中途半端な人生で人のことを品定めしたようなタイトルを考えるなんて、なんて僕はお馬鹿なんだバカバカ。


〇〇君は僕に感謝してくれてたのかな?


それだけが、〇〇君に聞いてみたい質問だ。

 


こんな事を考えながら、僕の落ちていく時間だけが今日も虚しく過ぎていく。

「愛してる」が分からない


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「愛してる」

 

この言葉の意味を人はどんな言葉で説明するのか?


俺が「愛してる」を説明するなら、相手の喜ぶ事をし続ける事と答える。

とにかく相手のしてほしい事、喜びそうな事をするだけだ。そうやって今まで生きて来たし、それ以外の方法を俺は知らない。

しかし、頭の中が綿菓子みたいにホワンホワンしてるロマンチストが「愛してる」を説明するなら、


「愛は与えるだけではダメ!突き放す事も必要、遠い空の上から見守るだけの愛もある。愛こそ大気圏。大気圏ラブ!」


こんな事が言えるのは、愛のエベレストの頂上に登り慣れてる人が言えることだ。ネパール人で登山ガイドをしてるカミ・リタ・シェルパさんはエベレストの頂上に27回も登ってるが、俺なんかは途中で高山病になり、いつも断念だ、愛のエベレストの頂上の場所さえ把握出来てない。

俺が登ったと思ってる愛の頂上は徳島県の日本一低い山と言われる弁天山ぐらいだ。標高6.1メートル…

マイクロバスの長さぐらいの標高しかない。

俺はこのぐらいの愛の山に登って、


「愛とは与え続けることだぁーー!」


と、自己陶酔しながら叫んでるに過ぎない。


古代ギリシアの学者アリストテレスは、


「愛は求めるものではなく与えるもの」


こんな言葉を残してる。


だったら、俺は何が足りなくてダメなのか?

それは、与えた後で愚痴愚痴言ってることだ。自分はこんな事をしましたよ、こんな思いでやってあげてましたよ、本当に心から助けたいと思ってましたよ。

やったよ、やってあげましたよ、ではないのだ。後から恩着せがましく言うなという事だ。その時は何も言わず、後からも何も言わず相手に与え続けるだけ。それこそが本物の「愛してる」ということではないのか?

しかし、これは辛い。辛いと思ってる時点で本物の「愛してる」ではないのだが、相手から何も感謝されず、俺のしてる事を当たり前だと思ってるような態度を相手からされると、ついつい言葉に出してアピールはしたくなる。

しかし、我慢だ。本物の「愛してる」マスターになるために、ここは我慢だ。

ならば、これはどうだ!さらに相手に与えるだけの連続攻撃だ。


借金助ける、飯奢る、プレゼント、飯奢る、車買ってあげる、プレゼント、貢ぐ、貢ぐ、貢ぐ、現金そのまま渡す、渡す、渡す、渡す、スッカラカン


ここまで人に与えても、後から愚痴も文句も言わずにひっそりと最後を迎える人生…


これが、本物の「愛してる」ということなのか?


これでは、あまりにも報われない。相手は何も思ってないのに、こんな「愛してる」があっていいのか?


自分の気持ちだけで完結する事が「愛してる」ということなんだろうか?


他の人は「愛してる」をどんな風に説明してるのか?


「愛情には1つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ」


これはフランスの作家、スタンダールの言葉だ。これは分りやすい。相手にも周りにも分かりやすい「愛してる」だと思う。


「愛はお互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである」


これもフランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの言葉だ。

これは俺の解釈だが「愛してる」を時間経過も込みで表してると思った。最初はお互いが見つめ合って愛が始まり、そして、長く愛を続けるにはお互いが同じ方向を向き、同じ目的を持つことが必要だと言ってるのだと思う。この説明も納得出来る。


「君が100歳まで生きるなら、僕は君が亡くなる前日まで生きたいな。そうすれば君なしで生きなくて済むんだから」


これはイギリスの児童文学者、A・A・ミルンの「くまのプーさん」での言葉だが、これは本当に自分本位の「愛してる」だと思う。じゃあ、自分が死んだ後の相手はどうなる?自分の事しか考えてない「愛してる」だと思う。自己愛しか感じない。


「愛とは、大勢の中からたった1人の男なり女なりを選び、ほかの人を決して顧みないことなのです」


これはロシアの作家、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの言葉だ。これは本質だと思う。映画「天気の子」のラストが賛否両論を巻き起こしていたが、愛する人だけが側にいるだけでいいと思うのは、隠しようもない本心だと思うし、これこそが「愛してる」の本質なのかも知れない。


しかし、こうやって過去の人の言葉を調べていると「愛してる」の本当の意味は1人だけの思いではないと思った。

それは、自分だけの思いだけじゃなくて、愛されてる人間も相手の愛に気付いて、言葉と態度で相手に愛を表すことで、初めて「愛してる」が完成するのではないか?


女性がデートの時に一生懸命にオシャレして現れたら、


「髪型可愛いね、時間かけて準備して来てくれてありがとう」


男性が高くはないけど精一杯のプレゼントを渡してくれたら、


「本当にプレゼントありがとう。私のことを考えて準備してくれたことが嬉しいよ」


こんな言葉でいいんだ。


妻が早起きしてお弁当作ってくれたら、


「いつもお弁当ありがとう。体調悪い時は無理しなくていいからね」


旦那さんが仕事から帰ったら、

 

「いつもご苦労さま。ご飯出来てるよ」

 

そこで、すかさず旦那さんはこう言う。


「いつも美味しいご飯の準備ありがとう。たまには簡単な食事でもいいよ」


そう「愛してる」とはお互いの愛の言葉と態度のラリーだ。返し返され愛し愛されだ。

どっちが先に愛情に気付いたとか順番とかはないんだ、気付いた方が愛を受け止め、そして言葉と態度で愛を打ち返す。


卓球の現代最強のカットマンと言われる佐藤瞳選手が2017年カタールオープン女子シングルス一回戦で、リー・ジエ選手(オランダ)と繰り広げたラリーの回数はなんと766回だ。これは現代卓球最高ラリーに認定されてる。


「愛してる」の愛のラリーはこれより遥かに長く続けなきゃならない。


だからと言って、大げさな言葉と態度でデコレーションする必要はない。


ちょっとした言葉と態度でいいんだ。


人は愛する人から分かってもらうだけでいいんだ。


なんなら、言葉は無くても手を少し握るだけでもいいかも知れない。


心で「いつもありがとう」と見つめるだけでもいいかも知れない。

 

「愛してる」

 

とは、相手と一緒に作るもの。


だから、相手の愛に気付いて嬉しかったら、自分が言ってほしい言葉と態度で表せばいいだけだ。

 

 

「愛してる」

 

 

とは、簡単なことだった。

夢見る恋のアプローチを学びたい!


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今年学びたいこと

 

今年というか、僕にとっては人生の一生の学びだと思うのですが、僕は恋のアプローチの仕方があまり分かりません。

 

本当は右に行かなければ成功しない恋の細道を、僕は逆の左に走ってる感じです。それも全力疾走で。

 

僕の人生ではそんなエピソードが満載です。

 

例えば、初恋では、保育園でまん丸お目々のゆりちゃんに恋をしたのですが、お目当てのゆりちゃんは他の遊具に夢中。

 

それを見て、何を思ったか頭の中がまだ木魚のように空っぽの幼いジョージは、ゆりちゃんの前で小石を食べたのです。

 

すると、ゆりちゃんは、

 

「すごぉ〜い!」

 

そう言って、僕に注目してくれました。これに味をしめた僕は嬉しくなって次々と小石を食べたのです。しかし、家で飼ってるポメラニアンがお手をするぐらいの簡単な芸では、ゆりちゃんのハートを射止めることは当然出来なくて、逆に保育園の先生に僕のお手々が止められただけでした。

 

ここでの間違いは、人に好かれるのは注目を集めることではないということです。幼い僕は奇抜なことをして、みんながこちらに注目されたら「ジョージちゃん好き♡」になると思い込んでたところです。

 

それが正しいならば、渋谷のスクランブル交差点で突然全裸になるといい。

 

そうすれば、僕は間違いなく注目され、みんなに愛されてるのと一緒です。

 

今となっては保育園での恋のアプローチは間違いだと、笑って語れますが、この恋の勘違いは小学校でもあったのです。

 

僕の住んでるところは、かなりの山奥で今でも携帯の電波が届かないところです。こんな山奥なので、僕は小学生の5年生まで町の夏祭りに行ったことがなかったのです。

 

元々、人見知りなのもあったし、何より僕は自分のファッションに自信がなかった。小学生は制服だったから、ファッションに気を付ける必要はなかったけど、普段の日は私服で出かけないといけない。

 

僕は山奥に住んでて、気軽に町に行けないということにあぐらをかいてたのです。自分のファッションセンスを磨いてなかった。母親の買ってくる服をそのまま着てるようなお坊ちゃま気質だったのです。

 

そんな僕が小学校5年生の時に、また恋に落ちた…

 

エクボのある可愛いあの子

 

その子が夏祭りに行くとの情報を僕の中のCIAがキャッチしました。

 

僕はすぐさま母親に懇願しました。

 

「母ちゃん、僕も服を買いに行きたい!僕自身の渾身のファッションセンスで選びたい!」

 

その心意気を感じてくれた母親と共に、僕は家から50分近くかかる街に夏祭りというジャパニーズカーニバル用の服を買いに行ったのです。

 

「こんなエリじゃダメだ!この色ではエクボのあの子の心は揺さぶれない!こんなトンガリ靴ではただのピエロになっちゃうよ!」

 

僕は本当に必死になって、11才という人生全ての情熱と思いの全てを服選びに投入しました。

 

しかし、ファッションというのは必死になってるところを表立って見せてはいけないのぐらいは分かってる。

 

「えっ?いつも僕がオシャレだって?そうかなぁ、寝起きて、そのまま近くに置いてある服を着て来ただけなんだけどなぁ〜」

 

と、こんな風に自然体でなければいけない。

 

だから、僕は夏祭り当日も自然な顔して、初めての夏祭り会場に向かったのでした。

 

もう何回も夏祭りを体験したような顔をしてだ。

 

しかし、選びに選んだこのファッション!自信がないわけはない。でも内心は夏祭りエキスパートの顔をしてますが、心はディズニーキャラクターのように心臓が飛び出すほどにドキドキです。

 

あっ!向こうからエクボのあの子が友達と一緒に歩いて来る!!

 

僕は冷静に小粋に軽いスキップをしながら、素知らぬ顔をしてエクボのあの子の横を通り過ぎました。

 

エクボのあの子の友達が、

 

「あっ、ジョージちゃんがいる!珍しい!」

 

そんな声が聞こえてきました。僕は心でニヤリです。

 

「そりゃ驚くだろう、めったに下界に降りてこない僕が初めて夏祭りに来たんだ。さらにそのファッションはこの町一番のハイセンスときたら、驚くのは無理もない。さぁエクボの、かわい子ちゃん僕に恋のシャワーを浴びせておくれ!」

 

そう思った瞬間、エクボのあの子の口から、

 

 

 

 

 

「ダサ〜〜い」

 

 

 

 

 

僕はその日から夏祭りに行ったことはありません。

 

その日、僕の恋は夏の夜空で花火と共に砕け散りました。

 

ファッションなどで人の心は奪えません。例え、奪えたとしても、それは花火のように一瞬の輝きです。

 

今年、いや、一生をかけて僕は学ばねばなりません。

 

恋のアプローチ方法を。

 

 

夢見るだけのアプローチではなく、実のあるアプローチを絶対に学んでみせます!

 

 


これが僕の今年の学びたいことです。

タンポポに願いを込めて


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今日も天気が良いから外に出たらタンポポを見つけた!

 


タンポポ花言葉は「愛の神託」「幸せ」「神託」「真心の愛」だそうだ。


ヨーロッパでは恋愛の占いに使う花と親しまれて「幸せ」の花言葉は、タンポポの綿毛を一息で飛ばし切れば恋が叶うと言われてるらしい。ポジティブなイメージの海外の人でも、花に恋心の願いを乗せるんだね。


タンポポの綿毛にも花言葉があって、綿毛の花言葉は、


「別離」


となる。なんだか寂しい花言葉だけど、綿毛が飛び散る事でタンポポのタネが遠くまで運ばれ、そして、またどこかで花を付けると考えると、前向きな花言葉だと思える。


今日も花言葉を検索出来る幸せな1日になったかなと思ったけど、今もまだ海外で争いが起こってる。


その争いは、国中のみんなが賛成した争いなのか?


いつまで、弱き民衆の意見は無視なのか?


また何が起こるのかさえ理解出来ない子供たちが犠牲になるのか?


俺はたまたま日本に生まれて、おこぼれのような平和の中、呑気にタンポポ花言葉を調べてる。


タンポポでさえ、幸せに生涯を全う出来る平和な国で、平和慣れしてダラダラと生きてる。

 

 

「罪のない子供たちが、俺みたいに平和慣れするような幸せな世界になりますように…」

 


俺はタンポポの綿毛に恋の願いをするのではなく、平和への願いを乗せて、綿毛を飛ばしてみよう。

何も動かない夜


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また、どこかの国で争いが起こってる。


いや、またじゃない。


いつもだ。

 

そして、いつも何も力もなく決定権のない弱き人たちが犠牲になってる。

TikTokを見てると、たまに海外の貧困層の子供が靴も履かずにボロボロの服を着て、親の仕事を手伝ってる動画を見る。撮影者は食べ物を与えたり、飲み物を与えたりして助けてる姿を動画として上げてる。


同じ人間なのに、生まれた国によって、なんでこんなに子供たちの幸せに差が出るのだろう。


海外の可愛い子供たちが苦労してる姿を見て、子供のいない日本の夫婦の中には引き取って育てたいと思う人たちもいるはずだ。

俺もお腹を好かせてる小さな子供にお腹いっぱいにご飯を食べさせて、日本の治安の良さと清潔な環境を味あわせてあげたい。日本のコンビニに連れて行ってあげたら、どんなに喜んでくれるんだろうと思ってしまう。


でも、俺は何も動けない。

 
動画などを見て、不幸な子供たちを可哀想だと思いながら涙も浮かぶほど感情移入するけど、ただそれだけだ。

たまたま日本に生まれ落ちただけの俺が、布団の上に寝っ転がりながら、いつまた新しい争いが起こるかも知れない世界の行く末を心配しながらスマホを片手に文章を書いてる。


いや、心配しながらではない。


心配したフリをしながらだ。

 

こうやって文章を書きながら、俺の心の中はこうだ。


「イヒヒ、こうやって世界の可哀想な子供たちの事を心配した風なことを書けば、俺の記事を見た人は少しは俺を良い人間だと思ってくれるかもな?ウヒョヒョ!」

 
こんな汚い心を持ってるのが俺だ。でも、こんな汚い心も剥き出しで正直に書かねば、俺が文章を書く意味なんかない。

だって、俺はなんの努力もせずに、この日本の平和を当たり前のように日々味わっているのだ、自分の汚い心ぐらい曝け出さないと罰が当たる。


俺は自分が平和に暮らせるように、なんにも努力してきてないよ。

 
だから、海外の紛争で泣いてる子供たちを見ると、自己嫌悪で苦しくなるんだ。


俺なんかより、もっと輝く未来のある子供たちなのにボロボロの服を着て、まともな靴さえ履いてないなんて…


俺は高校の修学旅行で、母親が買って来た先っちょがトンガッてる革靴が嫌で、別の靴がいいと駄々をこねた。そして、先っちょの丸い新しい革靴を新たに買ってもらって修学旅行に行った。

先っちょがトンガッてる革靴だって、新品なのにだ。

俺の革靴の先っちょがトンガッてようがまん丸だろうが、だ〜〜〜れも気にしてないし、見てもいない。

今思うと本当にアホらしいこだわりだ。


「お前は何様だ?馬鹿じゃないのか?」


過去の自分に今の俺はこう罵声を浴びせる。


こうやって、過去の自分の事を書いてるだけで自分のアホさ加減に目眩がしそうだ。もし、戦場の子供たちがこんな俺を見たとしたら、何を思うのだろうか…

そんなに罪悪感を感じるならば、少しは寄付をしたり、世界平和のために何かしたらいいじゃないか?と思われるだろうが、俺はいい人ぶってるだけで、何も動けない。


いや、何も動かない。


何も動こうとしない。


何も動かないのに、なんのために書いてるの?そう思われるかも知れないけど、何も動かない臆病な俺だから、今は書くことしか出来てない。


そんな弱くて臆病で自分の日々の幸せを当たり前と思って甘えてて、両親が大事に育ててくれたからこそ今の幸せがあるのに、そんな思いに大人になってやっと気づいた俺が、毎日当たり前に用意されてる日本の平和にどっぷりと浸かってる俺が、良い人ぶったままの文章を書いとけばいいのに、ありのままの醜い心を書いてしまう偽善者にもなりきれない俺が、


そんな俺の動くための第一歩が、ここに書くことだった。


いつか、誰か困った人を助ける事に繋がりたい。

 

そんな思いが溢れる夜。

 

そして、何も動かない自分を自覚しながら落ち込む夜。

 

今日はそんな思いを記す夜だ。

無責任な言葉に何回も願いを込める


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今日も暖かな1日だった。


もうすっかり春だ。


タンポポを見つけて、青い空の下、俺は今日も生まれた時からある当たり前の平和を満喫した。

この景色はわざわざ遠くに撮りに行った景色ではない。俺の部屋の窓を開けたらすぐに撮れる外の景色だ。


俺の住んでる所は正真正銘のド田舎!


嘘偽りのない山奥だ。本当に何もない。半径3キロ以内には30人も人がいない。


後 20年経ったら、この地域には人はまったくいなくなる。大袈裟ではない。もう新しい命がまったく育ってない地域だからだ。


でも、今の俺はこの地域に本当に救われてる。


俺はこことは比べ物にならないほどに騒がしい街で生きて行こうとしていた。

そこの街に行けば、きっと自分は幸せになれると信じていたからだ。でも、俺はその街で陰口悪口、そして嘘も覚えた。


今の俺は悪口も陰口も嘘も言わない、いや、それらを言いたくても言えない環境になってる。


本当はドロドロした人間なのだが、この素晴らしい自然の環境によって、今は無理やり作り上げられた善人とも言える。

騒がしい街にいた時は、常に人の目を気にして、その時に一緒にいた彼女と、しょっちゅう人の陰口や悪口を言っていた。


今は人の悪口を言えないんだ。なんたって悪口を言い合える人が周りにいないからだ。


今の俺はタンポポにまで話しかけてしまいそうなほどに、のどかな人間になっている。


「ねぇねぇ、タンポポさん、タンポポさん!タンポポさんはマイナンバーカードの登録はどうしてるんだい?本人確認の写真をせっかく撮っても、頭の綿帽子が飛んでしまったら、本人確認出来なくなるんじゃないかい?」


……どうやら俺は人の悪口を言わない人間にはなれてはいるが、別の意味のヤバい奴になりつつあるようだ…


そんなことを考えた1日


最後は無責任な偽善者として、タンポポの綿帽子に願いを込めて吹き飛ばそう。


例え、無責任な言葉でも何回も書くことでいつか願いが叶うかも知れないからね。

 


「世界中が誹謗中傷と争いが無くなり、どこまでも平和な世界になりますように…」

側にいてくれるだけの幸せ


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今は山奥で静かに暮らしてるが、普通の社会生活をしてた時は、世間の流行を必死に追いかけていた。


なぜなら、周りの人と話を合わすためだ。

自分の考えだけで生きていては、人との付き合いは上手くはいかない。だから、無理して必死に世間の流行を追いかけていた時期があった。

しかし、慣れない事をするもんじゃない。周りに合わせるためだけに流行を追いかけたって、何も楽しくない。俺はいつしか人間関係のストレスで昼飯も食べれないほど、悩むようになった。

こんな場所に居てもいいのか?人付き合いが苦手なのは子供の頃からの短所だから、無理矢理の笑顔でみんなに挨拶して、みんなの話に合わせるために流行を追いかけるなど、一体、誰の人生を生きてるのか分からない日々だったように思う。

それに最初に勤めた会社では、ほとんどの上司は不倫をしていた。その時の俺は、家に帰ったら大好きな人がいるのに、なんでそれだけではダメなんだろう?と思っていた。


大好きな人と一緒にいることこそが、人として目指すべき幸せではないのか?


その時の俺は絶賛年上の女性に片思いしてたから、もし、この人と結婚出来たらもう他には何もいらない。この人だけを幸せにして、この人を一生守る!


そんな王道少年漫画の主人公のような考え方で生きていた。


しかし、そこからさらに幸せを求める人もいる。あんなに好きで一緒に居たいと思った人でも、一緒に居るようになったら、そこから一緒に居るのが当たり前となってしまう人も多いだろう。

それにオスの本能は子孫をたくさん残すようにプログラムされてるから、浮気をするのはある意味あたり前とも言える。

だったら結婚した後に不倫するのは正義なのか?と問われると、芸能人が謝罪したり、仕事がなくなったりしてるのを見ると、間違いなく世間的には不倫は正義ではないだろう。


その時の会社の上司の1人は、30歳近い独身の女性社員と不倫していたが、さすがにいつまでも結婚適齢期の女性を縛り付けて不倫してるわけにはいかないと、泣く泣く、その女性社員と別れたのだが、なんと、その女性社員は不倫してた上司の部下になった男性社員と付き合って結婚した。その部下の男性社員は途中入社だったから、女性が不倫してた事は知らなかった。

これだけでも男性社員が可哀想に思ってしまうが、さらに、その女性は自分の結婚式に不倫してた上司も呼んでいた。

その時の俺は周りのみんなが不倫してたから、その環境に慣れてしまってて、世の中そんなもんなんだなと思ってたが、今思うと異常だな…

その会社は上場はしてないが、俺の地域では結構な有名企業だ。俺の県で名前を聞いて知らない人はいないような有名な会社だ。しかし、社内は不倫だらけという、獣のような倫理観。

しかし、社内の男女の性の乱れは、この会社だけではないだろう。


ある調査では、主婦の20人に1人が夫との子供ではないのに、夫には内緒で夫の子供として一緒に育ててるらしい。

これが本当なら旦那さんは辛いな。一生懸命に外で働いて、家に帰ったら可愛くてたまらない我が子が自分の子供ではないなんて…

大好きな人と結ばれないと、もちろん幸せにはなれないけど、大好きな人と一緒になったとしても、そこが幸せのゴールとは言えないのは切ないな。

本当の意味での幸せが何なのかは分からないけど、幸せの主導権が相手の心の中にあるのは本当に不安定だ。

だったら、一番信じられる自分の心の中に幸せの基準を作るのが、幸せへの一番の近道かも知れない。

それは、相手に何も求めない、相手に何も期待しない、去った相手を追いかけない。の、3「ない」だ。


いや、これは、自分が傷つかなくていい方法だな


一緒にいることだけが幸せだとしたら、その幸せを手に入れたとしても、いつの間にか、その幸せは手の中から消えていくのかな。


こう思ってしまうのは、俺が本当の幸せを知らないだけかも知れないな。


もしかしたら、本当の幸せを手に入れてたはずなのに、それに気づかずに無くしてしまっただけかも知れない。


でも、今の俺でも分かるのは、人が自分の側に居てくれるだけで、それだけで幸せなのは間違いない。


今は、誰も俺を求めず、誰も俺に期待せず、誰も俺を追いかけない。


だから、今は、何が幸せなのかがハッキリと分かる夜。

 

一人ぼっちの夜だからこそ、分かる幸せ。