最近、自分が書いてる記事を見てると、スピリチュアル的というか自己啓発的というか、とにかく精神的な事が多くて小難しい…
でも話題が無いのだ、人との楽しい語らいとドキドキワクワクのイベント事がないから実生活での書くことがなくなってる。なので、人生をどう生きるか?とか気持ちの持ちようとか、精神的なことを書くしかない。
それか昔話。それも尽きつつある。
それでも書く。自分を果物に例えるならばオレンジ。オレンジジュースという文章を書く為に絞りに絞って、もう果汁は残り少ないが、それでも書く。
何かを世間に残さねば、本当に何も残らぬ人生になってしまうからだ。
数年前、本当にスッカラカンとなって実家に戻った。ドアもまともに開かないようなボロボロの車に乗って、ボストンバッグ1つ持ってるだけの抜け殻となって戻って来た。
自分で稼いだお金は全てなくなり、一時期、財布の中身には120円しかない状態もあった。マンガやドラマでたまに見る作られた設定ではない。本当に財布に120円しかなかった。お腹が空いて、スーパーのお惣菜が半額に値引きされる時間帯を狙って、スーパーの中を何往復もする毎日だった。
それでも、90円になったパンを諦めた時もあった。いい大人が90円のパンを買えずに諦めたのだ。本当に情けない日々だった。
人のせいに出来るのは、まだ生きる気力があるからだ。追い込まれるとそんな気も起こらない。自分を責める毎日だ。「俺に力がないからだ。もっと救える道があったのに、俺が全ての原因だ…」
人を助ける為に全財産が無くなった俺という人間を救う為、親はその相手に対して最後の力を使って俺を救ってくれた。なぜか俺の貸したお金は貸した事実さえ消えていた。ダーク過ぎる世界だった。詳しくは書けないが、本当にギリギリの救出劇だった。Netflixで映画化出来るんじゃないか?人質解放のストーリーで。
マジである。ほんとのホントの話。これが怖い事に誇張ではなく、当人に分からないようにソフトに書いてこれである。これが暴力とかの支配ならば警察に行けばいいが、俺が自らの使命感に駆られて行った行為での、お金の献上であったから、長年親は俺を救えずにいた。
結局、俺が自由になったのは俺になんの価値も無くなったからである。
瑞々しいオレンジから乾ききったヘチマみたいになっての解放。お金という果肉は全て無くなり、気力という果汁は一滴すら残らず無くなっていた。
それでも相手を恨むことなく、今の穏やかな生活はこの経験があったからこそだと思ってしまう抜け殻。
寂しさを感じるのは、まだ人生に期待してるから。こんなに寂しい人生は自分には似合ってないと思えるからだ。
決して人生を諦めて投げてるのではない。諦めて投げるところまですら、心が戻ってないのだ。自分に何もないのが当たり前の心になってるのだ。
幸いに体は健康である。家も古いが持ち家があり、田畑もあり、水は山からの湧き水があり水の心配もない。田舎過ぎて売れないだろうが山もあり、ほぼ自給自足で生きれる環境に帰って来た。
父親は本当は都会に出たかったが、祖父が体が悪く、祖母から「家を継いでくれないか?」と言われた時には激しく反抗し、家を飛び出して夕方まで帰って来なかったが、帰って来た時には覚悟を決めて「家を継ぐ」と言って、田舎に残った。
そして、俺の帰る家と居場所を作ってくれてた。
自分の夢と引き換えに。
本当にありがたい。大嫌いだった山奥に俺は今、救われてる。
俺の大好きだったビートたけしの言葉が好きだ。昔のカッコよかった、たけしが好きだった。全盛期に軍団を率いて、周りの人間にはお金を出させず、浅草のホームレスにはお金を配って歩いたビートたけし。
「浅草で育ててもらったから、浅草にお金を返す」と言ってホームレス一人一人に一万円を渡して歩いたたけし。昔のたけしは本当にカッコよかった。
でも、今は新しい奥さんの言いなりらしい。お金にがめつくなったと週刊誌に書いてあった。
本当かどうかは分からないが、俺は今のたけしは昔に比べて本当は幸せなんじゃないかと思う。昔は気を張って男を張って、いろいろな人間の生活を背負って、人を守る人生をずっと送って来た。
今やっと、今の奥さんが自ら悪者になって、たけしを守ってるんじゃないかと思う。たけしがお金にセコくなったのは「奥さんが悪い」と世間から叩かれながら、奥さんは防波堤となり、たけしのお金に群がる人間から、たけしを守ってるんだと思う。
そんなたけしが昔に、こう言った。
「何もなくていいんだ。人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ」
今、人間関係とかいろんなモノで苦しんでる人、何も無くなっても大丈夫だ。
今生きてるだけで、あなたは素晴らしい。