自分の最後はどうなるか?
俺はまったく人生に絶望もしてないし、体も至って健康だが、さすがに自分の最後はどうなるかは、たまには考える。
普通の社会人なら、生きる為に、まずは人間関係構築を目指すはずだ。なぜなら、それが出来ないと就職すら出来ないからだ。
そして、就職を目指すなら、最初に面接を受けねばならない。
まずはそこから人間関係が始まる。
そこで面接が受かり、めでたく就職先が決まると、そこから本格的な人間関係が始まるわけだ。
しかし、俺は幸か不幸か、不労所得に近い収入源があるのだ(犯罪ではない)あまり詳しく書くと見る人が見ると俺の素性が一発で分かるから、あまり詳しくは書けないが、なんとか生活出来るぐらいは稼ごうと思ったら稼げるのである。
さらに実家暮らしで家賃がいらないし、さらに田んぼと畑があるから、最悪、食べ物は自給自足が可能なのだ。
これでは、ますます普通の人間関係を構築する必要性から遠のいてしまってる…
これでは、ますます孤独死まっしぐらだ。
みんな、生きるために嫌な人間関係があっても仕方なく我慢して働いてる。
しかし、俺は嫌な人間関係を避けても生きていける甘えた環境の中にいる。
これは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
楽して生きてるわけだから、俺は罰を受けねばならないと思ってる。
それは、孤独は当たり前、惨めなのは当たり前な人生の最後だ。
でも、深く考えたら、ほとんどの人間は人生の最後は1人寂しく逝くのは当たり前じゃないのか?とも思う。
それは家族に看取られてるから孤独じゃないということではなく、誰も一緒には死んではくれないという意味での孤独で逝くという意味だ。
愛する人が一緒に逝ってくれるなんて、一緒に車に乗っての交通事故とか、それぐらいしか可能性がないのではないのか?
と、思ってたら思い出した。
元オランダの国王が93歳で70年間連れ添った妻と一緒に安楽死によって天国に旅立たれたというニュースがあった。
まさに正真正銘に愛する人と一緒に天国に旅立ったのだ。
俺は安楽死は必要な人には本当に必要な制度だと思ってる。
もちろん、世の中には安易という言葉は適切ではないが、選択肢の中に「死ぬ」という選択肢がすぐに入ってしまう人も多いから、安楽死を選べる条件はかなり厳しくするべきだとは思うが、やはり安楽死という選択肢はあった方がいいとは思う。
実際に使用しなくても、その制度があるだけで、逆に悩むことなく前向きに生きようとする人も絶対に増える思う。
いざという時の逃げ道があるいうことは、案外心のストレスを和らげてくれると思うからだ。
大往生という言葉もあるが、この言葉を使われる人はかなりの高齢の人に使われてると思うが、結構、残酷な言葉じゃないか?
若い人が病気で亡くなると、涙涙で惜しまれて見送られるが、大往生と言われる人は、なんだか惜しまれて見送られるとは程遠い見送られ方だ。
同じ命なのに、惜しまれ方が違うなんて大往生と言われた本人からしたら「ちょ!待てよ!」だ。
考えてみると、価値観の違いって本当に不思議。
人間の3大欲求だって、睡眠欲と食欲はテレビで堂々と放送するのに、性欲だけは隠れるように発散されてる。
まぁ、マニアからすれば恥じらいこそが、ご馳走になりうるからコソコソすることは嫌いではないが、昔から不思議だなとは思ってた。
魚の活造りなんて、平気でテレビで放送したりするが、これが牛や豚ならどうだ?とても見てられないだろ?だから魚の活造りを見てられない人間だって他の国にはいるだろうから、これも価値観の違いだ。
だから、安楽死も価値観の違いでしかないと思う。優先されるべきは絶対に本人の意見だ。
死に方ぐらい選ばせてくれよ!と思う人は絶対にたくさんいるはずた。
綺麗なことばかりオープンにしないで、避けて通れないものも、ちゃんとオープンにするべきだ。
朽ち果てる美学を追求するテレビ番組があってもいいじゃないか。
「明日できる安楽死 天国へのスイッチオン」
「徹子とめぐる天国ぶらり旅」
「尊厳死にしやがれ!今から出来る後始末」
こんな番組があってもいいじゃないか、まぁ見る人は限られそうだが…
しかし、もし、俺と一緒に旅立ちたい!と言ってくれる人がいたとしたら、もちろん涙が出るほど嬉しいが、俺に人生の最後に付き合わせるわけにはいかない。
周りに、とんでもなく迷惑をかける最後だけは避けたいが、しかし、人に囲まれて穏やかに見送られるような生き方はしてないから、やはり、惨めに孤独に旅立つのが俺らしいと思う。
みんなが人間関係に苦しんで、そこから自らの命を絶とうとまで悩んでも、それでも頑張って家族のために生きてる人に対して、俺なんかは甘えて呑気に生きてるだけだ。
そんな人間は幸せになってはならないと思ってしまう。
時間と共に枯れ果てて、静かに土に帰るのみだ。
と、まるで今は咲いてる人生のようにカッコつけて書いていたが、元々枯れてる人生であった。
なので、さらに自ら枯れにいこう。
さらに枯れて最後を迎え、命は砕けて塵となり、塵は風に運ばれ舞い上がり、そしてこの地の自然に帰っていく。
もし、花でも草木でもいい。
俺の塵が次の命に繋がるなら、これが理想の終着点だ。