全力じゃなくていい


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「あなたを全力で必ず助ける!」


この言葉を言える男はまさに「男の中の男!」誰の目から見ても「カッコイイ〜!」となるはずだ。

しかし、言うだけならば誰でも出来る。

ならば、相手をちゃんと救ったらそれでいいだろ?

いや、まだ違う。この言葉を言うならば困ってる相手を救うのが当たり前。しかし全力はいらない。

全力で相手を救ったが、自分の生活が苦しくなるなんて、ただの自己満足であり自己陶酔でしかない。

困ってる人を必ず助けると言ったなら、必ず助けるのはもちろんだが、絶対に自分の生活基盤が揺らぐほどの力を使ってはダメだ。そもそも、そんな力しかない人間が人を必ず助けるなんて言ってはいけない

人を必ず助けると言える人間は、その人を余裕を持って助けることが出来る人間だけが言える言葉なのだ。

俺は「必ず助ける!」と言ったのに、相手を必ず助けることも出来ず、さらに自分の生活基盤も壊れ、さらに相手の心まで悪い方へ変えてしまった。


力がない人間が全力で人を救おうとすると、相手にも迷惑になる。


弱って困ってるから、人の救いが必要なのだ。安易な人の優しい言葉に全力でしがみついて来るかも知れない。人の優しい言葉に救われ、そして、その言葉を生きる糧にしてしまうかも知れない。

そんな弱い優しい言葉を信じて、その結果、救ってもらえなかった時のダメージはかなり大きくなると思われる。逆に救ってもらったとして、その結果、救ってくれた人の生活が苦しくなったり、その人が潰れてしまったりしたら、救ってもらった人は責任を感じて、今までとは違う苦しみを背負うかも知れない。

だから、人を救うのは全力じゃなくていいし、自分が壊れるほどの全力であってはならない。

だからと言って、困ってる人を見捨てるのか?といったらそうじゃない。

自分の出来る範囲で、自分の生活の困らない範囲で助けたらいいのだ。能登半島地震での募金も小さな額でいいのだ。自分の生活が苦しくならない小さな金額でいい。

誤解を恐れずに言うなら、人を助けるなんて鼻をホジりながら、片手間の余裕を持ってするべきだ。

そうじゃないと人への支援なんて長く続かないからだ。

金持ちの100万円と生活に余裕の無い人の100万円は世間に出回れば同じ価値だが、出してる人間の負担は大違いだ。生活に余裕の無い人間が人のために無理して出すべき金額ではない。

小さな助けでいいんだ。自分の生活が困らない範囲の手助けでいい。その時にちゃんと言えばいい。


「私の出来る範囲で助けるから」


自分の生活を一番に守った上での言葉でも、何もかっこ悪くない。「必ず」や「全力」などという言葉は使わなくていい。

人間は絶対に利己的な生き物だ。これを隠して、カッコつけて人を無理して助けようとするから、自分も相手にも不幸が訪れる。

これは人の事を言ってるんじゃない。自分の失敗を元に言ってるんだ。

俺は自分の欲望を全面に出さずにカッコつけて、

「俺が君を必ず助けるよ!大丈夫!まかせとけ!」

こんな言葉で、ある女性を助け始めた。

しかし、本心は、

「めちゃくちゃ可愛いいな。俺の好きな癒やし系の雰囲気でタヌキ顔。井川遥にソックリや!ここで助けて良い面を見せて、付き合えたらいいな!」

こんなゲスな思いを隠しながら、生活を助けて恩を売ろうとしたのだ。


なんと、卑怯な男!支援の風上にも置けない男だ!


しかし、こんな利己的な思いは可愛いい女性に対してならば男ならほとんど持ってしまう思いだから、ここはまぁ責めないでおくとしても、この後だ。

俺は本当に力がなかった。全体重をかけて俺を信頼してくれて、頼ってくれる人間を必ず救うほどの力がなかったのだ。

その結果、10年以上の長い時間を無駄にして、相手の女性の心は荒みに荒んで、二人共が不幸になってしまった。

だから、力がない人間は安易に人を救おうとしてはならないと思うのだ。

数千万のお金が無くなったとしても、

「喜んでくれたから、まっいっか!」

これぐらいの余裕がある人間だったら良かったのだ。

たかだか数百万の借金を肩代わりしたぐらいで、星空を見ながら、


「俺は彼女の人生を救った…これで良かった。我が貢ぐ人生に悔い無し!」


などと、恍惚な表情で浮かれてる場合ではなかったのである。

数百万なんて、ビル・ゲイツ孫正義ならば、道で歩いてて落としても気にしない金額でしかないのだ。

俺はつくづく思う。全力で人を助けるなんて、家族以外ではしない方がいい。他人でも自分だけが家族と思ってるだけじゃダメだ。相手も自分の事を家族と思ってないと意味がない。

そうじゃないと、生活がダメだった時に必要以上に相手に罪悪感を持たせてしまうからだ。

なぜ、俺がこんなに全力で人を助けなくていいと力説するかというと、もちろん自分が過去に失敗した経験があるからなのもあるが、やはり無力な自分を慰める意味で書いてる側面もある。

能登半島地震で、心を痛めてる自分がいるのは確かだが、今だに何も支援出来てない自分に罪悪感を抱いてるのだ。

だから、無理しなくていいと自分に言ってる。自分の動ける時、余裕のある時にでいいと。

自分の生活に余裕もないし、何より自分の心がまだ癒やされてないではないか。自分が一番可愛いいと思ってる心を隠す必要はないし、利己的でいいじゃないか。それが人間だ。

困ってる人を忘れず、思うだけでも支援に繋がると思う。


人は忘れられるのが一番辛いのだ。


俺は文章を書き始めてなかったら、今もまだ人と関わろうともせずに、外の明るさと共に目を開けて、外が暗くなったら目を閉じる植物のように暮らしてただろう。

それでも寂しいと思う心もなく、死ぬまで何もしない人生になってたと思う。

心が死んだまま、身体も死ぬ人生で終わってたのだ。

しかし、文章を書くようになってから、文字の中の世界とは言え、少しでも人との繋がりがある生活となり、スキを押してもらえることにより、また明日も文章を書こうとする力となってるのだ。

スキを押してくれる人は、自分の生活を犠牲にして押してるとかではないと思う。

「この一押しがジョージを救ってる!!私がジョージの人生を救う!!ジョージに幸あれ!!!」

などと、指先プルプルさせながら全力で押してるとかでもないと思う。

本当に無理なく押してくれてると思う。

しかし、それが俺の毎日の記事を更新する力になってるのだ。

だから、人を助けるのに全力はいらない。

 


人を忘れず、思うだけでも相手への支援になる。

 


そんな小さな思いが、いろいろな支援の第一歩になると思って、俺もまた文章にしてるのである。