至高の思考

 

人と生まれて、どのような姿勢、どのような思考を目指すべきなのか?

 

持って生まれた容姿の良さは、持って生まれた遺伝子の要素が大きい。みんなで顔やスタイルの話になった時に「君は耳たぶの形がいいね、お金持ちになりそう」などと容姿の評価をぼやかされてしまう、容姿に自信のない人間にとっては、容姿の劣等感に悩まされる時間は、かなりの時間ロスになってしまうだろう。

ならば、見かけの容姿より、中身の心を磨こう、人を思いやる優しい心を作ろう、そういう思いに行き着きがちだけど、その思いこそが人を思いやる心より先に自分の心を救う為だけの自分優先の思考なのだと思う。

人並みの人間関係に費やす心と時間がないが為に、その分の時間を至高の心を目指して、1人で考えて、考えて、結局矛盾に行き着いてしまう。

人を思いやる心を目指せば、結局は自分優先の自己愛に辿り着く。

 

結局は、俺の至高の思考は考えるだけ無駄なのだ。

 

容姿を気にして容姿を磨く行為も、仕事で悩んで愚痴を言いあう日々も、全てが愛おしく、生きた証だ。

人間関係で悩む時間こそが、実体のある至高の時間なのだ。

 

みんな、死んだら何もなくなり灰になるだけだ。

それなのに、人間関係で悩んでない俺の灰は確実に他の人より軽くて薄っぺらい。

 

灰になった俺の至高の思考は風と共に簡単に消えて行く。