俺の人生は逃げてばかりの人生だった。
中学校でサッカー部を辞めたのも、同級生にボコボコにされて自信喪失となり、その仲間のサッカー部の不良にも目を付けられ居心地が悪くなったからだし、故郷を捨て親とも音信不通になったのも、父親との折り合いが悪くなったからだ。
今まで、真正面から人とぶつかって物事を解決した事が俺にはほとんどない。今、文章に書くことで自分の弱さを改めて思い知った。
事実として、俺の人生は困難から逃げるか相手に服從するかの情けない人生だった。
しかし、本当に相手に真正面からぶつかって生きてても、俺は幸せになれたのだろうか?
人間にはやはり向き不向きが絶対にあると思う。人と真正面からぶつかって道を切り開ける人は、元々がそんな人間なのだ。元々がそんな人間じゃない人間が無理して人とぶつかって生きようとしたら、もっと悲惨な人生になるのではないか?
そもそも、弱い自分を認めて逃げるのが、そんなに悪い事なのか?
適切な言葉ではないかも知れないが、草食動物は肉食動物には絶対になれないのである。
草食動物はのんびりと草を食べて、肉食動物から逃げる生き方しか出来ない。人間でも、そんな人間は絶対に多いと思う。
しかし、今の社会は積極的に人に関わりに行って、失敗しても傷付いても、それでも挑戦し続ける人が称賛される社会だと思う。
困難や痛みから逃げる人間には本当に厳しい社会だ。
俺は赤ちゃんの可愛い動画とかをよく見るが、本当に目が澄んでて笑顔も自然で本当に可愛いと思って見てる。
しかし、ちょっと街に出て朝に車で走ってると、小学校高学年ぐらいで子供たちの表情が会社に通勤してる大人の表情と同じような表情になってると感じる。
もう、この年齢で社会のシステムを受け入れて仕方なく通学してるように見えるのだ。
でも、これは仕方ない。システムを受け入れないと教師に怒られ、親にも怒られるからだ。社会で生きるということは、周りに合わせるということだからだ。
でも、悲しいな。赤ちゃんの時はあんなに目が澄んでたのに、あんなに笑顔が自然で光り輝いてたのに、年を取るごとに、その耀きが失われる。
でも、人に合わせる事も難しくイジメや仲間外れにあって自ら命を失うぐらいなら、嫌な事から逃げる選択肢もあってもいいのではないか?
俺はそんな風に思ってしまう。
人生に勝ち負けがあるとしたら、生きて最後まで命を全うするのが本当の勝ちではないだろうか。
厚生労働省のまとめでは2023年の自殺者は2万1818人だった。
この中に、辛い思いや困難な状況から逃げるという選択肢や周りで「逃げても大丈夫」と言ってくれる人がいたとしたら、救われた命もかなりあったのではないかと思ってしまう。
自ら死を選ぶというだけの「逃げる」という選択肢しかなかったのが本当に切ない。
本当は別の逃げるという選択肢がたくさんの人にある社会が望ましいと思う。
俺は17才の時に初めてこの世から消える選択を実行しようとした事がある。
そして、なぜこの時は思いとどまったか?
それは、恥を晒してでも正直に書くが、
その時は女性経験が無かったからである。
まさに燃え上がる内なる欲望が、
「ジョージよ、このままオナゴの柔肌に触れずに息絶えていいのか?そこら辺の野良猫やお前の飼ってたカブトムシでさえパートナーがいて毎日イチャコラ宴を開いてるのだぞ?ジョージのリトルジョージがこのまま誰にもお披露目もされずに息絶えていいのか?」
俺はこの内なる言葉で思いとどまった。
まさに未来へのハレンチな希望が命を繋ぎ止めてくれた。
人に知られるのは恥ずかしい不純な思いだけれども…
しかし、この思いが無けれは俺はこの世にいなかったかも知れない。自分の写真を全て燃やして、この世に生きた痕跡を全て消したところまでは思い詰めてた。
でも、今は、いろいろなものから逃げた結果、俺は生き延びてる。決して幸せな人生ではないとは思うけど、それでも人生の勝ち負けが生き残ることならば、俺は勝ち残った人生だとも言える。
そして、今の命があるのも両親のお陰だ。
父親も母親も今の何も持ってない俺を決して責めない。あらゆる事から逃げて逃げてボロボロになってしまった俺を何も責めないし、生きて存在してるだけで喜んで受け入れてくれてるのである。
今、学校や会社の人間関係や周りの状況によって、本当に苦しくて死ぬことしか逃げ場がない人には、真っ先にその状況から逃げる人生があってもいいと思う。
生延びること、これこそが1番大事だ。
弱音を素直に言えて、辛い状況から逃げてもやり直せる社会、そして、逃げてもいいと言ってくれる人が周りにいてくれる社会であってほしい。
そう、死にたいほど苦しかったら逃げてもいい。
なんとかなるから大丈夫!