前に足の不自由な女の子を守れなかった心残りを書いたが、もう一つ心残りがある。
幼かった俺の心が引き起こした、俺に寄り添ってくれた人の心を傷つけた出来事だ。
俺は初めての就職が決まって、引っ越しをしなければならなくなった。何しろ住んでる所がとんでもない秘境なのだ。なんと家を出る時に鍵をかけないほどのド田舎だ。
信じられます?いくら日本が治安が良いからといって、家に鍵をかけないだなんて…
周りの人を信頼しきってるのもあるし、何より人がいないのだ。半径1キロ以内に10人も人がいない。
いつか必ず、テレビの「ポツンと一軒家」が取材に来るのは間違いない!あちらも必ずネタが少なくなるから、俺の家もターゲットにされるはずだ。
だから常々親には「絶対に取材を受けたらダメだ、今の時代、有名になってしまったら取り返しがつかない!これをデジタルタトゥーというんだ!」
そう説明してるが、親もデジタルという言葉は理解してるが、タトゥーという言葉は赤ちゃん言葉のバブゥーと同意語の言葉だと思ってしまうほどに、両親には馴染みのない言葉だ。
「有名になってしまうと、もし戦争になったら、真っ先に外国人部隊の標的にされてしまうよ!」
そんな、怖い話をしてでもテレビの取材は受けないように伝えてる秘境なのだ。
だから、当然のごとく近くに就職先はない。だから、引っ越しして遠くに就職したのだ。
さすがに、数々の修羅場をくぐり抜けた俺でも、初めての就職では両親に引っ越し先まで着いて来てもらって、家財道具やら何やら準備してもらった。
そして、一息付いて、会社の寮の近くにある小さな食堂に家族3人で小粋にランチと洒落込んだのだった。
そこの女将さんが、クミさん(仮名)だった。
少し厚化粧で、眉毛は一筆書きのような達筆な眉、少し夜の香りのする熟女。しかし、優しい笑顔で山から出て来た山猿3人を温かく迎えてくれた。
近くにある会社に就職することや、どこから来てるかなど話が弾んだ後に父親が、
「ちとお願いがあるんですが、このジョージ、世間知らずで一人暮らしは初めて。寮は寮という名の社宅なので食事は出ない。そこでお願いなのですが、500円ほどで、コイツの為に夜にでも食事を作ってくれないですか?」
そう言って、クミさんに俺の夜の食事のお願いをしたのだ。
クミさんは「いいですよ。一人暮らしは慣れてないと大変だろうから、夜ご飯はうちに来て食べてね!」
そんな優しい言葉をクミさんは言ってくれた。
俺はその言葉に甘えて、毎日のようにクミさんの店に通ったのだ。食事のメニューは日替わり定食が少し変わって、ジョージ専用の定食となって出て来た。
500円と言いながら、日替わり定食のおかずに1品余分に、おかずが添えてある豪華版だ。
その1品は卵焼きであったり、塩サバであったり、他の客にはない俺だけの特別定食で、俺は少し鼻高々で毎日優雅に夕食を楽しんだ。
しかし、ある時、俺の「特製ジョージの日替わり定食」に他の客が気付いてしまった。
「あれ?クミさん、俺もあの定食にしてよ」
そう言うと、クミさんはフフフと笑いながら「あれはちょっと違うんですよ」と言葉を濁した。
それを見ていた旦那さんが、隙を見てクミさんとカウンターの奥で何やら言い争いをしていた。
俺はすぐに気付いた。
「俺のせいだ、俺にだけ特別な定食にしてるから、他の客に示しがつかないから旦那さんに注意されて揉めてるんだ」
と、理解した。
これはどこかで見た記憶。小さい時に日時関係なく遊びに行ってた、てるくんという友達の家の中から聞こえて来た、てるくんの母親の声。
「また来た…」
俺は歓迎されてない事を知ってしまった、あの時の記憶が蘇る。
「俺が通うとクミさんに迷惑になってる…」
その日から俺はクミさんの店に行かなくなった。
決して、俺を迷惑がった旦那さんにそれを分からせてやろうと思っての、嫌がらせで行かなくなったわけではない。
ただただ、クミさんと旦那さんに迷惑かけたくなかった。俺なんかが行くから二人が揉めてる。だから、もう二人に迷惑をかけたくなかっただけだった。
俺はこんな事ばかりだ。二人に迷惑をかけたくないと書きながら、本当は分かってる。
また、同じような場面に出会って、また自分が傷付くのが怖いのだ。
自分の心だけを優先して、自分だけを守ってる。
突然来なくなった俺を見て、クミさんがどう思うのかなんて考えてもいないのだ。
会社の同僚がクミさんの店に行った時「あの食堂の女将さんが、ジョージちゃん元気にしてる?と心配してたぞ」
と、後日教えてくれた。
俺は結局、その会社を辞めるまでの6年間、クミさんの店には行かなかった。
クミさんがずっと俺の事を気にかけてたのを知ってたのに…
クミさんにした事をずっと後悔してる。クミさんと旦那さんが揉めてるのを知らないフリして、俺はそのまま店に通えば良かっただけなのだ。
自分だけが心にしまい込めば良かったのだ。そうすればクミさんの心を傷つけなかったのに。
俺の幼い心が自分の心だけを守ってしまった。
会社を辞める直前に、俺は同僚に連れられて、クミさんの店に6年ぶりに行ってみた。
もう最後だからと思って。
するとクミさんは俺を素早く見つけて、
「ジョージちゃん、久しぶり!」
とびきりの笑顔で迎えてくれた。6年前、初めて店を訪れた時と同じ笑顔で。
しかし、それ以上は何も言われなかった。
俺は同僚と同じ定食を注文した。
当然ながら、それはジョージだけの特別な定食ではなく、同僚と同じ定食だった。
もうあの頃のような「特製ジョージの日替わり定食」は出て来なかった。
クミさん、短い間だったけど、俺を大事にしてくれてありがとう。